名古屋在住〜商社時代
高校、大学を何となーく過ごし、やる気も覇気も無い時代でした。
しいて言えば
小学時代はサッカー
中学高校はテニスに取り組み、
大学時代後半にバンド
に目覚めてボーカル、キーボード辺りに精を出していたのがピークだった気がします。
ちなみに、大学は2年から3年の時に留年してます。
アルバイトを月に25日くらい出勤してたせいですね(親不孝)。
そうそう、アルバイトは色々やってました。
・・・後、忘れました。
最後のクロネコヤマトの事務バイトをしていたときの
仕事仲間とは、本当に色んなことがやれて楽しかったんですよね。
個人的には、そのままヤマトの社員になりたいなーと思ったんですが、その頃の上司に、
「一度は一般の会社に入社した方が良い。ヤマトはいつでも入れるから。」
と言われました。
「そんなもんなんだ」と思い、そのまま大学推薦の会社に入社しました。
大体そういう、言われるがままに選んだ会社って何かしらのフラグが立っているワケで。
新入社員代表の第一声を任されて、
「やるからには、社長になります!!!!」
と言ってしまいw
![](https://masuonet.com/wp-content/uploads/2020/01/やる気男.png)
その後
こんな毎日だと当然登校拒否ならぬ登社拒否になるワケで、
会社行くフリして漫画喫茶に入り浸るという、アウトロー生活が始まりました。
![](https://masuonet.com/wp-content/uploads/2020/01/pose_zetsubou_man.png)
自宅から出る時は普通に出社して、会社には体調不良で休むと連絡。
まあよくあるやつです。うつ病開始のフラグです。
嫌な会社に毎日行ってても、苦痛でしか無いんですよね。
寝ぼけて会社の車で事故ったりしました。助手席に居た先パイが、
「こ、こ、こ、殺す気かーぁぁぁああああああ!!!!!!」
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と叫ばれたのを覚えていますw。
幸いガードレールにガリガリやっただけだったんですけども。
会社が「こいつはヤバイ」と悟ったせいか2〜3週間の休みを与えられました。
その間に、1人で東京に行ったり、
関西の兄貴の家に泊まりに行ったり、
軽い風来坊生活をしてた気がします。
そんな生活をしたところで、リフレッシュできるわけはなく、
また会社に戻ったって変わりませんよね。
で、1年も経たないうちに、
ボーナスだけ貰って辞めました。
会社からしたタダの人罪ですね。
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クロネコヤマト時代
その辞めてすぐ、クロネコヤマトに契約社員で入社しました。
当時はクロネコヤマトに「メール便センター」というのが無かったので、
その立ち上げに主要メンバーとして携わるという話がありました。
しかし、上手く話が進まず、上司に
「人生うまいこと行かないもんだわ。取り敢えず宅急便のセンター長で実績上げたら?」
と言われて、宅急便のドライバーになりました。
弁当屋の宅配も嫌いではなく、宅配自体は性に合ってたみたいでした。
その後、契約社員から正社員になりました。
1、2年後にセンター長になり、
スキルアップの為、
当初のセンターより巨大な親センターの子センター長へ。
そこで2年務め、
名古屋でもかなりの発送個数の多い親センターのセンター長になれました。
![](https://masuonet.com/wp-content/uploads/2020/01/mokuhyou_tassei_man.png)
丁度その頃が29歳で、結婚し子供も生まれました。
最初のうちは楽しかったんですが、やっぱり大きなセンターになると
色々大変になるもんですね。
自分だけの集配は当たり前で、
やること多すぎの毎日でした。
センター長になってからはほぼ中間管理職に近かったので、
自分の直属の上司である支店長との人間関係が本当に嫌でした。
朝5時起き〜21時までの集配〜センター長業務〜上司の自慢話〜午前1時に帰宅
いわゆる「子供の起きてる姿を見れない生活」ってやつですね。本当に辛かった。
![](https://masuonet.com/wp-content/uploads/2020/01/pose_zasetsu.png)
自分として
「センターを良くしたい」
「こうしたい」
「ああしたい」
というのがあったんですが、何でもかんでも上司や、
会社の方針と食い違う、営業の数字が達成してないという理由で頓挫。
ノルマを達成していても、何かしら理由をつけて頓挫させられてました。
昨今良くニュースになってるパワハラなんて日常茶飯事。
ヤマトの本社に告発しても揉み消されることもありました。
そもそも毎日クロネコヤマトのトラックが走りまくってるのに、
クロネコヤマトの事故のニュースってあまり見ないですよね?
まあそういうことなんですよ。
自分が一番辛かった、会社を辞めようと決めたキッカケが、妻の存在でした。
そんな自分の生活に、
不満の1つも言わず、
ニコニコ笑顔で専業主婦をやってくれている
妻を見るのが一番辛かった。
このまま続けてても、
こんな会社で出世もしたいとは思わないし、
何より体がおかしくなる。
辞めよう。
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辞めると決めて、溜まりに溜まっていた年休を
全部消化してやろうと調べてみたら、丸々2ヶ月分溜まってましたw。
「年休を使うやつは悪」
という会社の風潮は何とかならないもんなんですかね。
最近は無くなってきてるんですかね。
当時は本当になかなか消化出来ず、年休が消えてたりしてましたよ。
年休が消えるとかアリエッティ。会社が買い取らんかいと訴えてました。
辞める前には、電気工事士2種の免許を持っていたので、
長野の電気工事会社を調べて体験入社をし、
そんなこんなで、ほぼ10年務めたヤマトを辞めて、
妻の実家の長野に移住しました。
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電気工事士時代
当時だと至って普通の会社だったかも。
今の時代だとボーナス無い会社が普通かもw。
この会社入って半年くらいは本当に楽でしたね。
これがアフター5ってやつかと思いました。
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しかし、楽しかったと感じたのは、気の合う上司と現場が一緒だった時だけ。
気の合わない上司が多い会社だったので、ここでもまた苦痛でした。
結局、会社って上司で左右される場所なんだと。
どんだけ魅力ある仕事であっても、上司に気に入られないと苦痛しか待っていないと。
だったらもう自分だけで仕事した方がいいじゃん。
自分で頑張った分だけお金がもらえる形がいいじゃん。
そう考えるようになってからは、
自分の中で何かが「フッ」とほどけた感じが。
この電気工事会社を辞めようと決めたのは早かったです。
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脱サラ〜独立開業時代
副業で「せどり」というビジネスが即金性が高くて良いことを調べ、
中古せどりから開始し、処分品と合わせて3ヶ月くらいで30〜40万稼げるようになりました。
新品せどりのコンサルを5万で受け、月に150万ほどの売り上げが立ったところで脱サラ。
そのまま情報発信のコンサルを30万で受け、せどりコンサルだけで150万の売り上げが立ち、
加えて流行り物せどり、アイコスバブルでも1500万以上の収入を得ました。
![](https://masuonet.com/wp-content/uploads/2020/01/coin_medal_gold.png)
その売り上げを元に、500万の融資を受け、
資産構築型の「寝かせせどり」などに特化していきました。
メーカー物、型落ちプリンターとかも、寝かせるとめっちゃ値上がりするんですよね。
そのまま波に乗り、仮想通貨バブルに乗ろうとするが撃沈しますw。
撃沈といっても百万くらいの損失でしょうか。千万じゃなくて良かったかと(笑)。
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そのバブル絶頂の時に、情報発信をやめてしまったんですよね。
あのまま続けていれば・・・と今は思います。
その後、せどりを続けていましたが、
などに苦しみました。
上記内容を防ぐ手段として
輸入関係や家電卸関係のコンサルも受けつつ、独自商品を売りたいと考えていた所、
農産物に出会いました。
って大分前から身近にあったんですがw。
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以降、農産物ネット販売ページに続く